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第163回『飽食の時代』2005年12月11日

紅葉も終わり、殆どの木が葉を落とすと、
「柿」の熟しきった赤に近い朱色がひときわ目立つ。

昔は柿が色づいて、
食べ頃にになれば収穫されてしまって、
最近のような風景は見られなかった。

甘いもの、南国の果物、
いつでも何でも手に入る近頃では
「柿」はあまりかえりみられないらしい。

人の嗜好の変化もあるが、
全く手付かずのまま、残っている木が多い。
つつきにくるはずの鳥の姿すら殆どない、
どうしたことなのだろう。
「飽食の時代」は人間以外の
生き物にまで及んでいるのだろうか。



終戦前後数年は「飢えの時代」で
殆どの人が食糧難(死語)で空腹であった。
悪い事と知りつつ、我慢が出来ず畑の作物、
キュウリ、ナス、ネギに至るまで、
盗んでその場で食べた記憶がる

まして甘そうな柿に至っては
欲しくて仕方なく失敬した。
見つかってこっぴどく叱られ恥ずかしい思いもした。
それが今はこの写真のような木が
里山にはいくらであり、誰も見向きもしない。

「甘柿」も「干し柿」も昔と変わらず美味しいし、
渋抜きし、冷やした「蜂屋過柿」
などはこの上なく旨い。

にもかかわらず、放置されたままなのは
もったいなくもあり、不思議で仕方ない。

単価が安くて、収穫に値しないのであろう。
皮をむいて「干し柿」にすることなど尚更手がかかり
出来ないのが現実なのであろう。
それにしても多くの柿がこのまま朽ち果てていく。
それでも稀には、青いうちに落ちた柿を拾い
甕に漬け「柿渋」を造ったり、
完熟の柿を漬けて「柿酢」を
造ったり、皮を剥いて「干し柿」を造り、
一切無駄にしない人もいる。



この写真は昔撮ったものではない。
一昨年「喜源治」(158回で紹介)の軒先の風景である。
このような風景への単なる郷愁から
シャッタ-を押したわけではない。
又、単に美しさに惹かれただけでもない。
自然の恵みに対する「礼儀」に感動したからである。

(第80回「柿」2004年10月24日も参照)



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